回復号は各駅停車

 30代後半、男性。地方出身。僕の最大の性的行動化は過度の風俗通い。それと"のぞき、盗撮、スカトロ"等の変態ポルノグラフィを見ながら行う自分とのセックス。さらに、異性の後ろ姿を強迫的に凝視して変態妄想に浸り続けること。

 僕は母親に虐待されて育った。僕にとっての母親は恐怖そのものだった。愛情は向こうからは発信されていたかも知れないが、僕の側でそれを受け取った記憶はあまりない。およそ、"母の暖かさ"というものとは無縁に生きてきた。

 さらに僕はいじめられっ子だった。幼稚園から高校まで、絶えずいじめを受けていた。男子からだけでなく、女子からもさんざんいじめられた。いじめというものは同性からされるよりも異性からされる方が傷が深く残る。僕にとっての女子(=異性)とは、僕を汚物扱いし、僕の名字に"クソ"をつけて呼び捨て、集団で侮辱の言葉を浴びせてはしゃぎたてる存在であった。そのうち気になる子も出て来たが、とても告白など出来る空気ではなかった。

 人間関係の大事な部分が欠落したまま、年だけ取っていった。

 10代で凝視と変態妄想が始まった。20代で変態ポルノグラフィが手放せなくなった。そして32才のある日、楽しみにしていたプライベートの行事が急な仕事でパーになるということがあった。本当に楽しみにしていたことだったので嘆き、怒り、わめき、自分を呪った。仕事にともなう報酬を現金でもらって、「この金1円残らず、遊んで使ってやる」と思った。何に使おうかと考えた結果、風俗店へ行くことにした。この時点での僕はまだほとんど異性と性的接触をしたことがなく、いわゆる"早漏恐怖"もあったのだが、それでも店へ向かったくらい、自暴自棄になっていた。

 そして、店の個室の中でコンパニオンを抱きしめた瞬間、二度とオフになることのない、とどめのスイッチが入ってしまったのである。

 なにがしかのお金を出せば、優しさと肌のぬくもり、そして恋人気分と性的快楽を簡単に手に入れられることを知ってしまった僕は、いっぺんに風俗に夢中になった。店や女の子の情報を片っ端から仕入れ、手当たり次第に通った。

 風俗店でコンパニオンと接している間の僕は、酔っている、ラリっているのと同じだった。時間が来て店を出た瞬間から離脱症状が始まる。頭の中は、「ああ、もう一度、女の子を抱きしめたい。背中をとんとんしてほしい。優しい言葉をかけてほしい。甘えさせてほしい。とろけさせてほしい......」といった思い一色。片時もそれが消えることがない。悶え苦しむ日々。金を何とか都合してまた店に行き、女の子を抱きしめると楽になる。終わると再び...の、際限ない繰り返し。間隔が数週間から二週間、一週間、五日、三日と縮まり、ついには連続に。はしごする日まで出てくる。半年で貯金が底をついた。一年後にはサラ金から借金していた。一年半ちょっと後には多重債務になっていた。サラ金のATMから金を引き出して2軒はしごして、金が足りなくなってまたサラ金のATMへ走って金を引き出して3軒目へ、結局5軒はしごして、只々みじめになって、自己憐憫に浸りながら家へ帰って一人寝るときの辛さ、苦しさ、寂しさ。そこから楽になりたくて、また行動化に及ぶ。堂々巡り。もはやどうすることもできなかった。

 "助けを求める"という正気の部分は辛うじてまだ残っていた。それに応じて精神医療、カウンセリング、自助グループという、泥沼から抜け出す鍵がいくつも僕に与えられた。しかし地方ではそれらの恩恵にあずかれるにも限界があった。また、行動化そのものは回数が減っていても続いていた。そして30代後半になり、自分の心と魂をケアしてこなかったツケが回ってきた。一昨年、とうとう精神的な破綻をきたし、仕事を辞めざるを得なくなった。間もなく、全てを捨てて東京に出てきた。今は福祉に助けてもらいながら、毎日自助グループに通っている。その過程で、SCAにつながることが出来た。

 上京してから、風俗通いは一年半以上とまっている。変態ポルノへのとらわれも減ってきた。ただ、変態妄想を頭の中でプレイバックさせて行う自分とのセックス(僕はこの行為もスリップと定義している)は、今もとまっていない。このことを過剰に意識して回復を焦り、痛い目を見たことがある。そして今、こう思う。

 「神様、超特急回復号は、各駅停車に種別変更致しました。"認める。信じる、ゆだねる"の3つのパンタグラフをきちっと上げれられる意欲をお与え下さい。あなたの出してくれる信号現示に従える落ち着きをお与えください。」

セノハチ

(初出:2007年2月第18回横浜アディクションセミナー資料集)